2007年9月22日土曜日

Iesukak

九段下
問いかけ、
僕を確かめる、
色々な形で、

電話で、
そもそもやり直しなのか?
意識よ、僕を信じろ、
偏在する、
世界とそれを認識する意識。
それは、
母と父であり、
誠実さも愛も、欲望も、疑いも、
私はどのようにあるのか?
どうあるべきかではなくて、どうあるのか?
もっと他の形でも感じてみたい。

何を信じるかはデザインだが、
何を信じているかはサイエンスだね。
自分が何を信じているかは信じている間は判らない。
信じることは真実になり得ない。

前提条件は認識の背景、
シンプルな条件は認識を際立たせる。
私は認識する前提条件を、
その際に行われる事は?

前提条件が前提条件ではなくなり、
前提条件の認識に適した前提条件は?
これで自分のしっぽに追いついた。
無効化?により、その先へ、

前提条件それ自体を認識しようとする意識の作用をさゆりと呼ぶことにする。
これは実現しない、認識自体がもつ限界だから。
さゆりは会う事の叶わない象徴なのさ。

そういった認識、意識の持つ特徴とは関係なく、
確信をもって語りかける声がある。
それは誰の声だろう。
今、その声と語り合いたい。
心ゆくまで。

愛してる。
貴方を。
あいたい。
あいたい。
あいたい。

愛している。

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